コラム
第1回


はじめに〜ゲームから学んだ人生哲学〜


「ゲームは単なる暇つぶしであって、それ以上のものではない」という人がいる。今でも多くの人がそう考えているのかどうか、ぼくには分からない。だが、ゲームにポリゴンが登場する以前には、こういう言葉をぼくはよく耳にしたものである。松浦理英子という人が書いた「親指Pの修行時代」という小説があるが、この本の中で作者は同じ意味のことを断定的な口調で述べている。いかにもゲームを忌むべきものであるかのように描写していた。ぼくはこの箇所に出会ったとき、猛烈に腹が立った。おそらく、この文章を読んでいるあなたも同じように腹を立てるだろう。

だが、この意見も全く根拠のないものだとは言えない。ゲームの中でどんなに頑張ったところで、現実生活を生きているぼくらにとっては、何も手に入れることができないからだ。ドラクエなどのRPGで、レベルを99まで上げようとしているとき、「一体、俺は何をやっているんだろう?」という空しさを味わった経験は、このサイトを見ている人なら誰しもあるはずだ。だが、本当に一体何をやっているのか、それを深く考えてみた人は少ないはずである。ぼくはそれを深く考えてみた。そして、一つの素晴らしい結論を導き出した。それはゲームが教えてくれた一つの人生哲学といっても差し支えなかった。このサイトの記念すべき第一回のコラムでは、この哲学をあなたに伝えたいと思う。

その前に、あなたは「ゲームとは何か?」もしくは「ゲーム性とは何か?」といったことを考えてみたことがあるだろうか? もし、あなたがそういうことを考えたことがあって、自分なりの明確な結論を持っているのなら、ぼくの考えを押し付けるつもりはまったくない。ぼくはたしかにある一つの明確な結論を持っている。だが、これは比較的最近気づいたものである。したがって、なんというのか、時間的な研磨に耐えた代物ではない。だから、今からぼくのいうことは間違っているかもしれない。しかし、少なくとも、この文章を書いてある今の時点では、ぼくは自分の答えの正しさを信じてはいる。

いきなり結論を述べても良いが、まずどういう風にして、ぼくが考えたのかを伝えたいと思う。一般に物事を考えるには、論理的に思考を推し進めてゆく方法と、他の多くの例を見て共通点を考える方法の二通りがあると思う。それらは演繹法と帰納法と呼ばれている。ぼくが「ゲーム性とは何か?」という問題を考える際に使ったのは、帰納法の方である。だから、「なぜその答えが正しいのか?」と聞かれても、「それは全てのゲームに共通しているから」と答えるほかはない。本当に全てのゲームに共通しているかどうかは、もし例外があるなら、ぼくにメールでも送って知らせて欲しい。あなただけにこっそりと謝ろう。しかし、今書いている文章の改定を要求することだけは辞めて欲しい。何事にも例外というものはあるものである。逆に言えば、例外のないものなど存在しない。ぼくは学者ぶるつもりはさらさらない。だから、あまりぼくの言うことに厳密性を求められても困る。

で、ぼくが考える「ゲーム性」とは、「現状より一段高いところに目標を設定し、それに向かって努力もしくは思索を積み重ねる」というものである。「それがなぜゲーム性と言えるなのか?」という質問には、ちゃんと答えよう。それは、人間という生き物は、目標に向かってまっしぐらに突進している状態にいるとき、快感を覚える動物であるからだ。これは疑いようもない事実だ。一般に「ゲーム」と呼ばれているものは、たとえそれがどのような種類のものであっても、この要素というか「面白さ」を中核として成り立っているはずである。そして、ぼくらはその目標が達成されたとき、小さなあるいは大きな幸福感と達成感を感じ、次の目標に向かう意欲も高まるようにできている。ゲームではこういった成功体験を、何度も何度も味わうことができる。そうして、ぼくらは加速度的にゲームにハマってゆくのである。

加えて、多くのゲームでは「ボス」というものが存在する。中ボスでもラスボスでもいい。彼らにはたいてい一度戦ったぐらいでは勝てない。時には、「こんなのに勝つのは絶対無理だ!」と叫びたくなるようなボスもいる。このゲームがRPGであれば、まだレベルを上げるという手段が残されているが、シューティングやアクションといったジャンルになると、頼れるのは己の腕のみしかない。ぼくらは何度も何度もボスに戦いを挑む。そのたび、敗北し、そして学習する。そして、いずれきっと、必ず、勝てるようになる! この「あきらめずに何度も挑戦すれば、物事というのは必ず成就する」という、人生において大抵の場合通用する真理を、ゲームはぼくらに教えてくれるのである。ぼくは医学のことは何も分からない。だから、「ゲームをよくプレイする人間はキレやすい」と一般に言われていることが事実かどうかは分からない。しかし、人間心理学的には、ゲームはまことに人間に強い忍耐力と成功経験を教えてくれる仕組みに充ちている。しかも、それを楽しみながら学べるのが、ゲームなのである。「ゲームは単なる暇つぶしである」という人間は、眼が曇っている!

もし、ぼくのこのゲーム性に対する主張に納得してくれるのならば、次の主張にも納得してくれるであろう。
それは、「おおよそ全てのゲームは目標を設定し、それに向かってまっしぐらに突進する生き方を人に強要している」と。「強要」という言葉を使ったのは、それが「知らず知らず」のうちに、ゲームをプレイする人の心に浸透してゆく類のものだからだ。ゲームに熱中する限り、あなたはこの思想をゲームから受け取らずにはいられないだろう。この文章を読んでいるあなたは、きっと上昇志向の強い人間であるとぼくは思う。そして、それはもしかしたら、生まれ持ったあなたの性質ではなく、その多くはゲームから学んだものかもしれない。

つまり、全てのゲームはこう言っているのである、「美しく燃え尽きよ!」と。脇目も振らず、目標に向かってまっしぐらに生きる生き方をすることを、あなたに訴えかけているのだ。この生き方は、というよりも、人生哲学は、日本でもっとも有名な女性心理学者である神谷恵美子という人が、その「生きがいについて」という著作でも述べている、素晴らしい生き方である。ぼくらはこの生き方を信じなければならない。それが「ゲームを愛する」ということである。

以上が、ぼくの「ゲームから学んだ人生哲学」である。ただし、「自分の人生において、目の前に一段高い目標を設定して、それに向かって努力する」としても、それは努力すれば必ず手に入れられる類のものでなければならない。現在の時点では目標の高すぎるものや、手に入るかどうか分からないようなあいまいなものではダメだ。たとえば、有名になりたいとか恋人が欲しいとか、そういったものではなく、もっと身近なもの、たとえば、2万円貯めてレザージャケットを買うとか、ダイエットして10キロやせるとかそういった類のものである。しかし、そういったことを続けてゆくうちに、あなたは少しずつ高い目標を設定できるようになり、いつかは本当に満足できる環境を手に入れられるだろう。しかも、その間の人生は、ゲームのように楽しいものとなるはずだ。

興冷めさせるようだが、ついでに、もう一つ言っておかなければならないことがある。それは一般に「萌え系」と呼ばれるタイプの女性を、ゲーム愛好者の男性は好むという世間のイメージについてである。残念ながら、これはまったく正しい。「萌え系」という言葉が使われ始めたのはここ最近のことであるが、ぼくの知る限り、このタイプの女性はファミコンが登場する以前から多くのゲーム愛好者の男性の心を掴んできた。もし、あなたが昔ながらのゲーム愛好者の男性ならば、「イースの○○○(名前は忘れてしまった)は、萌え系なんかとは違う!」と激怒するかもしれない。もしそうなら済まないが、ぼくには違いが分からない。大方同じにしか見えない。ぼくがここで言いたいのは、「萌え系」と定義された女性は、一時の流行などではなく、今後も長らくはゲーム愛好者の男性の心を掴み続けるだろうということだ。

それはなぜなのか? それは彼女たちには上昇志向がないからである。上昇志向がないから、何が起こってものんびりと構えていることができる。この点が恐ろしくゲーム愛好者の男性の心を掴んでいるのだ、とぼくは推測する。若いうちは、自分にないものをもっている異性に惹かれるものである。上に述べたように、ゲーム愛好者はおそらく総じて上昇意向が高い。だから、もしあなたがいわゆる「オタク」と呼ばれる、世間や身近な人から蔑視されている人であろうとも、自分の上昇志向の高さを信じて、自分の人生をよりよくするために努力して欲しい。

・・・・・言いたいことは全部言ってしまった。そろそろ、このコラムも終わらせなければならない。だが、その前に名作マンガ「編集王」の主人公カンパチの熱いセリフを紹介しておきたい。彼は、「明日のジョー」に心酔して、ボクサーになったというほどのマンガ馬鹿である。

「真っ白な灰に燃え尽きるためなら、俺は一生童貞だってかまわねえんだよ!!」


2003年11月3日



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