コラム
第2回


このサイトにおける批評について


このサイトはゲーム批評サイトである。ネット上には様々なゲームレビューサイトや感想サイトがあるが、このサイトはあくまでゲーム「批評」サイトである。だが、そもそも批評とは何か? まずは、この問題を明らかにしておかなければならないだろう。感想やレビューの定義なら簡単である。「私はこのゲームをプレイしてこう思いました」というのが感想だし、「このゲームはこういうゲームですよ」と紹介するのがレビューである。だが、「批評する」ことの定義はこれらのように簡単にはいかない。この点の難しさが、たとえ自称でも、ゲーム「批評」サイトが少ない所以だろう。

念のために断っておくが、ぼくは評論家やジャーナリストという職業を生業としている者ではない。とはいっても、単に趣味で、ゲーム批評などというサイトを作ろうと思っているゲーム好きの一般人でもない。だが、そちらの方がゲームを批評する上では、遥かに都合が良かっただろう。もちろん、ぼくも元はゲーム好きの一般人である。だが、今は見習いゲームプランナーとして、ゲーム業界で働く人間となった。このサイトも主にゲームを研究するために、自分のライフワークとして作ったといっても差し支えない。

ところで、ゲームを真面目に「批評」しようとする人は案外少ない。いや、逆に案外多いと言えるのかもしれないが、それらの多くはくそ真面目過ぎて読んでいても面白くないし、何よりまったく頭に入ってこない。これはぼくの頭が悪いせいかもしれないが、ぼくは別にゲームの学者になろうともジャーナリストになろうとも思っていない。ぼくが成りたいのは、あくまでゲームクリエイターである。だが、少しでも真面目にゲームを愛している人なら、現在ゲームが持たれている悪いイメージを払拭したいと思っているはずだ。ぼくも昔は、優れたゲームが数多く世の中に発表されれば、自然とそうなると思っていた。しかし、今では「自然に」という言葉は、正しくないと思っている。文化の文化的価値を高めるのは、ジャーナリズムである。ゲーム同様、日本が誇る文化であるアニメや漫画がこれだけ世の中に認められるようになったのも、ジャーナリズムの功績であるとぼくは思う。

話を元に戻そう。「批評」というものを考える上において、実は今ぼくの手元には強力なガイドブックがある。「小林秀雄全集」である。現代では知っている人は少ないとは思うが、小林秀雄という人物は昭和初期の文芸評論家で、今日では「批評の神様」と呼ばれている人物である。なんでも日本の批評のスタイル作った人だそうだ。ぼくは以前は批評家や評論家という人種が大嫌いであった。彼らは自分たちでは実際に作品を作れないくせに、まるで作者よりもそのジャンルについてよく知っているかのような口の利き方をする。何より傲慢で偉そうなところが、ぼくの気に食わなかった。しかし、小林秀雄の批評に接したとき、ぼくは恐ろしく衝撃を受けた。そして、「批評する」ということの素晴らしさに胸を打たれたのだった。

だから、ぼくの批評のスタイルは独学ではあるが「小林秀雄流」である、ということができる。この人の批評は、ぼくが抱いていた批評というもののイメージを完全に覆した。もし、あなたが小林秀雄の批評に接したことがないのなら、あなたのイメージもきっと覆ることだろう。小林秀雄という人は、「批評は芸術である」と考えていた人である。実際、相当の変わり者だ。かくいうぼくもゲーム業界の中では変わり者だと自覚している。しかも、まだ右も左も分からないような見習いプランナーである。だから、ぼくの言うこともあんまり信頼しないでもらいたい。これは嘘をついてしまった場合の保障としても、特に言っておきたいことである。

小林秀雄は「批評」というものにかなりこだわっていた人物ではあるが、とうとう「批評とは何か?」という問題について明確に答えたことはなかった。少なくとも、ぼくの読んだ限りではそうである。しかし、ぼくはこのサイトにおける「批評の定義」というものを明確にしたいと思っている。「おまえは小林秀雄が批評の師匠だと言っておきながら、師匠ですら明言しようとしなかったことをしようというのか?」と、あなたは文句を言うかもしれない。だが、ぼくらはどんな人の思想でも吸収することはできるが、自分自身であることを辞めることは決してできない。ゆえに、ぼくはぼく自身の判断を下す。これも小林秀雄から学んだことである。

このサイトの批評の定義は、「優れた作品が一種の手品だとするならば、批評とはその手品の種明かしをすることである」ということである。ゲーム批評に限定してもっと分かりやすくいうならば(これでも十分分かりやすいと思うが)、「面白いゲームが、なぜ面白いのかを解析する」ということである。そして、ぼくはこのサイトのゲーム批評において、それ以外のことは語らないつもりである。これは自分の立場を危うくするということもあるが、PCであまり長い文章を読むのは眼が疲れてしまうので、それ以外のことを語る余裕がないからである。もちろん全く欠点のないゲームなんてものは存在しない。しかし、ネット上で、あるゲームなり作品なりの欠点を指摘して一体なんになるだろう? ぼくにはその価値がまったく見出せないのである。

というわけで、このサイトで批評するゲームは、基本的にぼくが「面白い」と感じたゲームのみである。そうなると、ぼくの趣味に走った幅の狭いゲームの批評しかできないが、「もっとも深いゲーム批評サイト」と銘打ったからには、「そのゲームの面白さ」については、かなり深い部分まで掘り下げて分析をするつもりだ。第一、ぼくらは自分の好きなものしか本当の意味で理解することはできないのではないか。自分が理解できないものについて批評したところで良い批評はできまい。それなら、批評しない方が賢明というものだろう。

ここで、非常に申し訳ないことではあるが、いくつか言い訳をさせていただきたい。このサイトは「毎週新しいゲームを批評する」と明言しているが、それはぼくの管理能力から言って実質不可能である。先にも述べたように、ぼくには別に本業があり、そちらを常に優先させてゆきたいと思っているからである。だから、常に不定期で更新が止まるかもしれない。また、ある作品を本気で批評しようと思うのなら、批評する作品について様々なことを徹底的に調べておかなければならないものだ。ゲームでいうなら少なくとも攻略本を書けるぐらい、そのゲームをやり込んでいなければならないだろう。だが、もちろん毎週そんなことをする時間はぼくにはない。だから、ちょちょいとゲームをやって、それでそのゲームを批評するという暴挙を取らざるを得ない。このサイトは長期間に渡って続けてゆきたいと思っている。いわば、ぼくの趣味と実益を兼ねたライフワークとするつもりである。仕事というのものは本気でやろうと思ったら、恐ろしいほどの集中力やエネルギーを使う。だが、ぼくにはそんなバイタリティはない。だから、時には本気になることもあるかもしれないが、基本的には肩の力を抜いて、気楽に続けてゆきたいと思っている。つまり、このサイトは一見雑誌風のスタイルを取っているように見えるが、完全なオナニーサイトであると言える。

後、もう一つ、ぼくはこのサイトにおいてかなり多くの断定的な言い回しを使うと思う。時には、「なんでお前にそんなことが言えるんだ」と文句を言いたくなるほど、傲慢なことを言ってしまうこともあるだろう。だが、批評というものは、断定的な言い回しを使わなければうまく書けないものである。少なくともぼくにとってはそうだ。だから、ぼくの書く文章の語尾の多くが断定形になってしまうのを、どうか許していただきたい。ぼくが断定形を使うときは、自分が心の底からそう思うもので、疑問形や「〜と思う」といった言い回しで語尾を結ぶときは、まさしく心の中でそう思っているものである。そう解釈していただきたい。

最後に、小林秀雄の批評についての言葉を紹介して、このコラムを結ぶとしよう。

「最上の批評は常に最も個性的である。そして独断的という概念と個性的という概念とは異なるのである。」



2003年11月3日


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