コラム
第3回


ゲームと映画


このサイトにある他の文章をよく読んででくれた人なら気づいていると思うが、ぼくは結構映画マニアである(しかも、こんな始まり方ばっかりだが)。実はいうと、このサイトもある二つの映画レビューサイトに触発されて創ったものだ。というのも、なんとそのサイトの管理者は二人ともぼくと同じ77年生まれなのである。「同じ歳でもうこんなすごいやつが出てきたのか」と、少々対抗心のようなものを感じてしまった。

だが、映画狂だった時代は案外短く2年ほどだ。しかし、この2年間は毎日映画を2本観ていた(!)。これは異常な状況である。2年間、映画を毎日2本見続けるということは、この時代だけでも計1460本の映画を観たことになる。これは3日に一度映画を一本観るという習慣を、10年間続けてもまだ追いつかない数字である。クエンティン・タランティーノは、監督になる前の俳優だった時代、レンタルビデオ屋でバイトしながら、10年間で約3000本の映画を観たと言われているが、ぼくも大体彼の約半分ぐらいは映画を観ていると言えるかもしれない。

しかし、これだけ映画を観ても、レンタルビデオ屋に入れば、観ていない映画や観たい映画はどっさりと置いてある。そりゃそうだ。レンタルビデオ屋には数万本の映画が置いてあるのだから。一体、世界に存在する映画を全て数え上げてみたら一体何万本あるのだろうか? 数十万本、いや、数百万本あるかもしれない。つまり、映画というのは幾ら観ようとも決してその全てを把握することはできないのである。実際、ぼくにも有名なものでも観ていない映画は山ほどある。しかも、映画は毎年新たに何千本と作られているのである。

ということは、つまり、ぼくらは物事の本質という大切なものを見抜く場合においても、全体の総数から比べれば、本当にわずかなサンプルの中からでしか、物事というのは考えられないのだ、ということが言える。つまり、大切なのは観察した対象の数の多さではなくて、むしろ、その対象をどれだけ深く観察するか、ということなのだ。これは映画だってそうだし、ゲームだってそうだし、人間だってそうだ。10年以上付き合っている親友にだって新たな発見があることもあるし、同じ家族のことだって、ぼくらは案外分かっていないのかもしれないのである。

ところで、いつものように「面白い映画の共通点」をあなたに示したいところではあるが、これは正直言って、ぼくの手にもあまるものである。なぜなら、映画狂だった時代にぼくがはっきりと感じた実感では、映画というものはたった1シーンでも素晴らしいシーンがあれば、良い映画になりえるからである。映画というものはどんなに長くても数時間で終わる。ほとんどの映画は2時間前後だ。それなら、平凡でそれなりに良く出来た映画よりも、たった1シーンでもいいから歓喜させてくれる映画の方がよっぽど価値が高いのである。

ただ、洋画に限って言えば、「戸田奈津子が翻訳した映画は面白い」ということが言えるかもしれない。彼女は日本の映画界において最も有名な翻訳者であり、本当に多くの映画の翻訳を手がけているけども、おそらく、彼女は自分が翻訳する映画を選んでいる。内容的にしっかりしたものしか自分は翻訳したくない、というようなポリシーでも持っているのではないだろうか。もちろん、戸田奈津子が翻訳していない映画でも面白い映画はあるが、とりあえず、ぼくは映画のタイトルに「翻訳:戸田奈津子」と出た映画で、つまらないと思った映画を観たことがない。しかも、商業的にいわゆる売れ筋ではない、ちょっとマイナーな映画でも手がけていることがあるので、あなたも映画を観る際、最初に戸田奈津子の名前が出ているかどうか、ちょっと確認してみると良いかもしれない。

で、ぼくはゲーム業界への就職活動の際において、自分が「映画好き」だということをなるべくアピールしようとした。プラス評価になると思ったからである。しかし、それで相手にいい印象を持ってもらえたことは一度もなかったと言ってもいい。大体の人が、眉をひそめて苦笑いするのである。これは一体どういうことだろうか? だって、日本のゲームはあれだけ映画の影響を受けているではないか? 「映画はストーリーや映像演出や演技や音響などから成り立っているが、そんなものはゲームの本質とは関係ない。むしろ、そういうものが好きな人間は、逆にそういうものにこだわりすぎて、柔軟な発想(ゲーム的な)ができないのだ」と、経験則によって判断されたのかもしれない。実際、どうもゲーム業界は「ストーリーを見せたい」という人間を馬鹿にする傾向がある。では一体、本気でゲームのストーリーを手がけたいという人は、どうやってゲーム業界に入れば良いのだろうか? これは非常にもったいない話である。

ゲームには、その面白さを維持するための基本的な原理の一つに、「プレイヤーと主人公の同化」というものがある。映画や小説などの物語も、たしかに主人公に強く感情移入してしまう場合もあるが、ここで言う「同化」とはまたそれらとは全然意味の違うものである。むしろ、逆とも言えるかもしれない。映画では登場人物などが観客に話しかけてくると我々はびっくりするが、ゲームではむしろそれが自然なのである。

宮本茂氏や堀井雄二氏はこの「同化」という点を徹底しているが、小島秀雄氏や坂口博信氏などは、割とアバウトに捉えているようである。後者の二人は映画好きとして有名であるし、映画のような感動をゲームで与えることを目標としていることは、彼らの作品からもはっきりとうかがい知ることができる。「常に主人公の視点からゲームの世界を眺めさせるか」、あるいは、「主人公やゲームの世界を時々はプレイヤーに眺めさせるか」、という違いだと言うこともできる。前者の方がより純粋にゲーム的であるし、ゲームの世界に対する没入感も強い。しかし、後者の場合の方が、より表現の幅を広げることができるというメリットがあるし、ある意味では、ゲームの世界に対する没入というものを拒否しているとも言える。どちらの方が良いのか、ぼくにもまだ分からないが、どちらの方法を取るにしても、少なくとも一本のゲームの中においては、一貫させなくてはならないのは確かだろう。

ところで、ゲームにはそのストーリーを語る上において、映画より確実に勝っているメリットが一つある。それはいわゆる「長編物」のストーリーでも、ゲームなら表現できるということである。映画は集中して作品を観るという性質上、あまり長時間の上映はできない。もっともビデオで販売するなら別であるが、それでも、「映画館」という圧倒的なメリットが喪失されるし、ゲームの方が長時間のプレイ(鑑賞)に堪えうるのも事実であろう。

実際、一般に長編小説などを原作して創られた映画は、その多くが失敗に終わっている。映画はどちらかというと短編小説に似ているのである。ゲームがそのストーリーにおいて、映画よりも大きな感動を与えられるとすれば「長編物」だけが持つ面白さに、その可能性の一つがあると言えるだろう。



2003年11月3日



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