コラム
第6回


遊びと人間


今回のコラムでは、「遊び」と「人間」との係わり合いについて、少し考えてみたいと思う。カイヨワという学者の書いた本の中に、同じく「遊びと人間」という著作があるが、この本の内容とは別に関係ない。しかし、ぼくもカイヨワの「遊びと人間」は読んだことがあるので、最初に少しだけこの書物についても触れておこう。

カイヨワの「遊びと人間」は、「遊び」という文化を本格的に研究した数少ない本の一つであり、現在では遊びの研究書の古典とさえ見なされている。それゆえに、ゲームなどの「遊び」を語る人の間では、しばしば神格化されがち(?)ではあるが、実際に読んでみると、かなりのトンデモ本である(と思う)。だが、まあ、なんにしても第一人者というものは常に偉いものであって、彼がいたからこそ後世にもわずかながら、「遊び」を研究しようという人々が現れたとは言えるのだろう。

ぼくらは普段の生活の中で気軽に「遊ぶ」という言葉を使うが、これは別にルールのある遊びのことだけを指しているわけではない。映画を観たり、カラオケに行ったり、単に友達とおしゃべりするだけでもいい、それら「気晴らし」を主に、ぼくら大人は「遊び」と呼んでいるのである。

だが、子供にとっての「遊び」とは、大人たちが使う意味の「遊び」とは少々意味合いが違う。生まれたばかりの幼児は、まだ十分に動けないので、くるくる回るおもちゃを見て楽しんだり、でんでん太鼓を振り回したりする。少し大きくなると、おもちゃのてっぽうやミニカーやお人形、他にも色んな種類のおもちゃで楽しむようになる。あなたも子供の頃は、「おもちゃ箱」というものをきっと持っていたことだろう。

そして、もう少し大きくなると、今度はぼくらは「ルールのある遊び」を楽しめるようになる。野球をしたり、かくれんぼをしたり、TVゲームでもいい。また、もう少し高度な遊び、模型を組み立てたり、カードゲームで遊んだり、小説やマンガを読んだりもできるようになる。こういった種類の遊びは、小学生ぐらいの子供にとっては、自分の意思でやる限り、純粋に楽しく夢中になれるものだし、おそらく小学生ぐらいの時分にこういった経験がまったくない人というのは、限りなく少ないことだろう。

だが、中学生ぐらいになると、現在の日本の教育では、段々と「勉強」というものがぼくらの心の中心を占めるようになってくる。これはガリ勉くんでも、不勉強な人でも多分同じだろう。テストや受験といったものに絶えず心をわずらわしている内に、段々と純粋に遊びを楽しむことができなくなってくる。と同時に、小学生ぐらいの時に楽しんでいた子供っぽい遊びからも離れるようになってくる。しかし、ぼくの思うに、それら「子供っぽい遊び」の中には、あらゆる遊びの中でも極上のものがつまっている。たとえば、自然への憧憬とか、友達とムキになって競い合うこととか、暗闇や目に見えないものへの空想とか・・・うまく説明できないがそういう楽しみを味わえる感受性も、次第にぼくらは失ってゆくことになる。

高校生になるとどうだろう? 高校生ぐらいだと微妙だが、バスケをやるにしても、ギターを弾くにしても、もう子供の頃のような純粋さでぼくらは楽しんではいない。どちらかというと、ぼくらは若い青春の血潮をそこで燃やしているのであって、純粋に遊んでいるというよりかは、自己開発のためにそれらに打ち込んでいるという趣の方が強くなる。映画を観たり、小説を読んだり、音楽を聴いたりするのだってそうだ。もう決してかくれんぼをして遊んだり、ままごとをしたりはしない。それらは自分たちにとっては、もう何の成長も促さないからである。

10代後半から20代前半ぐらいまでの一般人は、「自分を成長させてくれるもの」を限りなく好むのだと、ぼくは思う。そして、この頃から「遊び」はその純粋な意味を失い、「気晴らし」という意味合いを帯びてくるようになる。現在ではネットゲームなどの普及によって変わりつつあると思うのだが、大学生にもなればかなりの人はTVゲームからは離れてしまう。彼らにとっては、TVゲームもかくれんぼと同様、「もう卒業」ということになる。クリエイティブなものに接するといえば、小説とか映画とか音楽とか絵画とか、遊びというよりは芸術に近いものに接するようになってくる。たまに、エンターテイメント系のTVを観たり、ゲームをプレイする機会があるとしても、彼らにとってはそれはあくまで気晴らしであって、真剣に見たり遊んだりするものではないはずだ。

ここから先の「遊び」は人ぞれぞれである。趣味として、スポーツを楽しんだり、作品を鑑賞したり、ギャンブルに夢中になったりするかもしれないが、それらの職業を本気で目指している人以外は、それらは単に自分たちの生活を潤してくれる趣味もしくはレクリエーションに過ぎなくなる(ギャンブルは別かもしれない)。一般にゲームは子供っぽいと言われているが、映画とか音楽とか小説といったものも、どんなに優れたものでも、その大部分は若者向けであって、結婚して子供を育てるようにもなれば、おそらくもう直接的には共感できなくなってしまうのではないかと思う。

人によって「何を楽しいと思うか?」はあまりにも幅の広い問題であって、一口には言えないところがある。が、なんにしても、ぼくらの人生からあらゆる楽しみを奪われてしまっては、おそらくどんな人もそれ以上は生きてゆきたいとは思わないだろう。ゆえに「遊び」というものは、カイヨワのいうとおり、人間にとって必要欠かざるものだということは間違いない。だが、こうして人の成長過程ごとの遊びを見つめなおしてみると、やはり遊びの面白さというものは、遊びそのものが持っているというよりかは、それを味わおうとするその人自身が生み出しているものなのだと感じる。



2003年12月22日



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