トップクリエイター分析
第1回


宮本茂


この「トップクリエイター分析」というコーナーは、ゲーム業界において優れたクリエイターと呼ばれている人たちの考え方の特徴や、その手法を分析しようという、かなり大胆なコーナーである。しかしながら、ぼくらがゲームを創る上において、また、優れたゲームとは一体どのようなものか?、という問題を考える上においては、かなり役に立つことだということは、あなたも承知してくれるだろう。

一般に、ゲーム以外の他のどんなクリエイターにも、その考え方や方法論において、癖というかこだわりがあるものである。とはいっても、ぼくらが彼らの考え方や癖を真似しても、決して彼らを越えることはできないし、結局彼らとは違う手法を取らざるを得ないわけだが、それでも、なんらかの参考には十分なるし、ときには彼の言うことに一片の間違いもなく、全てのクリエイターが従うより他はない、というような、そんな方法論すら見つかるかもしれない。

そして、この記念すべき第1回目に紹介するトップゲームクリエイターとは、宮本茂氏である。もしかしたら、あなたは氏の名前を知らないかもしれない。だが、「ドンキーコング」や「スーパーマリオブラザーズ」、それに「ゼルダの伝説」といったゲームを創った人と言えば、すぐに了解してもらえるだろう。氏はぼくの最も尊敬するゲームクリエイターの一人、いや、最も尊敬しているゲームクリエイターである。氏ほどゲームの本質というものを理解し、そして、大切にしているクリエイターはいない。しかも、氏の創り出すゲームはことごとく斬新であり、商業的にも大きな成功を収めている。決してネームバリューで売っているわけではない。たとえば、「ピクミン」のごときゲームは、いわゆる同人ゲームや専門学校などで若きクリエイター達が考え出す、どんな突飛で前衛的なゲームよりも、はるかに斬新であると言えるだろう。しかも、それを商業的にも成功させてしまえるという奇跡。氏は、まぎれもなく日本が誇る天才の一人である。

しかし、氏はとあるインタビューの中で、こういう言葉も残している。「最近の若い人たちはゲームを難しく考えすぎる。ゲームもおもちゃの一種なんですよ」と。これは耳の痛い話である。だが、ぼくはこれをヒッチコックの「たかが映画じゃないか」という名言と同様に捉えている。つまり、これは天才的な感覚をもった人たちだけが言いえる逆説であって、ぼくらのごとき凡人が、こんな言葉をまもとに受け取ってはならないのである。

だが、ぼくは氏が何も考えないでゲームを創っているなどとは夢にも考えてはいない。やはり氏の創るゲームにも、他の優れたクリエイターと同様、強い個性とこだわりがある。たとえば、ゲームのスイッチを入れて、ロゴが出現してから、2秒以内にボタン入力を受け付けるタイトルが出現する、といった類も氏の創るゲームに共通する「こだわり」である。ぼくは今から、その中でも氏の創るゲームに共通する、主だった特徴を考えてゆきたいと思う。



 ヒーローという概念の創出

世界で一番最初に「ヒーロー」という概念を取り入れたゲームは、「ドンキーコング」だと言われている。つまり、それまでのゲームは「なんだか良く分からないけども、自分を攻撃してくる敵」をやっつける類のものだったと推測できる。しかし、氏は「ドンキーコング」において、敵を「自分のフィアンセをさらった悪役」と位置づけ、主人公、つまり、プレイヤーをそれを助け出すヒーローという風に位置づけた。これによって、プレイヤーのアクション自体にストーリー性が生まれ、プレイヤーの起こすあらゆる行動に「目的づけ」というものができたのである。もちろん、ゲームをクリアしたときの喜びも達成感も何倍にも大きくなる。人々は自分自身が「ヒーロー」になれる、ゲームという初めての媒体に酔いしれたのである。

もっとも、ヒーローという概念をゲームに取り入れるという発想自体は、別に氏でなくとも他の誰かがいずれは思いついたことだとは思う。しかし、このアイデアはまさしくゲームの本質を突いていた。事実、氏の作るゲームは以降全て、プレイヤーがそのゲームの世界でのヒーローになれるものだった。氏の生み出すヒーローは、映画の中のヒーローのように、スーパーマンや美形な紳士などではなく、ぼくらでもすぐに感情移入できるような平凡なヒーローだったのである。あるいは、これはぼくの推測だが、氏の創るゲームにおける主人公とは、「氏自身」であるのかもしれない。



 ゲームの文法

氏の作るゲームとは、いわゆる世間の常識人から見れば、あまりにも突飛過ぎて、現実離れした発想のものばかりである。たとえば、「スーパーマリオブラザーズ」を例にしてみると、キャラクタは人間の何倍ものジャンプ力をもち、しかも慣性の法則を無視して空中で動くこともできる。「キノコ」を食べれば身長も体重も2倍になり、敵に当たれば子供のように縮んでしまう。極めつけは、画面上部に主人公の顔と「×3」といった数字があり、この数字が0にならない限り、主人公は奈落の底に落ちても、再び復活できる。しかも、コインを100枚集めれば、その数字を増やすこともできるという、我々の常識から考えれば、明らかに「異常世界」である。

しかし、一般の多くの人々は、この氏の創った「スーパーマリオブラザーズ」を、あたかも「精神異常者が創ったゲーム」のごとく捉えただろうか? ご存知の通り、事実はまったく逆である。人々は歓喜をもって、自然にこのゲームを受け入れた。キノコを食べると身体が一瞬にして肥大化することにも、誰も疑問を抱かなかった。「なんでキノコにしたんですか?」という質問にも、氏は次のように答えている―「だって、面白いじゃないですか」。

分かるだろうか? これが氏の「文法」なのである。現実の表面的な「らしさ」などにはこだわらない。誰だって、主人公の顔の横に数字が残っている限りは、まだ復活できるんだということは了解できる。逆に、数字がまだ残っているにもかかわらず、現実のように一度死んでしまったら復活できない、ということの方が、ぼくらはよっぽど不思議に思うだろう。世の中には、この「だって、面白いじゃないですか」という言葉の意味を理解できない人たちがいる。何事にも「理由」というものを求めたがる常識人たちだ。ヒッチコックはこれに「たかが映画じゃないか」と答えた。しかし、ぼくは氏に変わって、正確な解釈を与えたいと思う。「だって、面白いじゃないですか」という言葉の真意は、「人間の心がそういったものを自然と了解できるようになっているから」ということである。これは決して個人の主観などではない。人間の心の機敏を深く察した言葉なのである。



 キャラクタとの同一感

氏が常にゲーム創りにおいて、何度も主張していることが、この「キャラクタとの同一感」である。自分がまさに分身である主人公キャラクタを自由に動かせているという感覚。氏の創るゲームの主人公は、決して大げさな自己主張はしない。まさに、主人公=プレイヤーという図式をしっかりと守っており、その感覚の乖離を起こさせないためのテクニックが、この「キャラクタとの同一感」なのだろう。

また、キャラクタとの同一感にはもう一つの役割がある。それは、「キャラクタを動かしているだけで楽しい」という感覚を生み出すためでもある。自分の操作するキャラクタが、自分の意思通りに自由自在に操作できたとき、ぼくらは「楽しい」と感じる。この根本的な楽しさをなくして、アクション主体のゲームは成り立たないということは、もう氏が発見した一種絶対的な定理と言っても良い。そしてこの定理は、氏が何度も提唱したこともあって、かなり多くのゲームで守られているものではあるが、やはり氏の創るゲームほどのこだわりは他のゲームにはなかなか感じられない。マリオほど自分の思い通りにキャラクタを動かせたゲームを、ぼくは他に知らないのである。


 オリジナルファンタジー

最近のゲームは非常にリアルな方向に走っているが、氏は一貫してファンタジーを貫き通している。これは氏によると、「リアルに近づけるほど、現実では起こらないことが起こってしまった場合、抵抗を感じるから」ということらしいが、おそらく元来の氏の持っている世界観というものが、ファンタジーなのだからだろう。

しかしながら、氏のように自分独自のオリジナルのファンタジーを創造できたクリエイターは、ゲーム業界には非常に少ない。ご存知の通り、マリオはもう一種ディズニーにも負けないほど、日本の子供たちの心を掴んでいる。優れたゲームシステムやゲームデザインを行えるプランナーは大勢いても、なかなかここまで人の心を掴むキャラクタや世界観というものを創造できた人は、滅多にいないものである。ある人が言っていたが、「キャラクタの命というものは、ストーリーやゲームシステムよりも長い」のである。

そして、氏の世界観に共通する特徴は、「生物への限りない愛」である。氏の考え出す世界観には、色んな動物や昆虫、いや、植物すらも含めた、全ての「生あるもの」をモチーフとしたユーニクなキャラクタたちが登場する。敵キャラクタたちも、「ゼルダの伝説」のガノンを除けば、全てどこか憎めないところがあり、敵というよりは、ライバルといった趣がある。実際、「ドンキーコングJr」は、ドンキーコングの息子が主人公となって、父親を助け出すためにマリオと戦うというゲームである。

しかし、見逃してはならないのは、氏はそれら「生あるもの」を単に愛らしい玩具として捉えているのではなく、生命を維持するということの厳しさ、生命を失うということの恐ろしさも、ちゃんと見つめているということである。任天堂が出すゲームでも、ぼくはこの点で氏が強くかかわっているかそうでないかが、判別できるような気がする。そして、その厳しさまで見つめることができるのは、やはり氏が本当に深い愛情を生物に抱いているからに他ならないのである。




2003年11月3日



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