トップクリエイター分析
第2回


坂口博信


このコーナーの第2回目に紹介するトップゲームクリエイターは、あの「ファイナルファンタジー」シリーズを創った坂口博信氏である。今回も恐れ多くも、氏のゲーム作りの考え方やその手法を分析しようと思うのだが、氏の場合、ぼくには一つ不安なことがある。ぼくも26年間男性として生きたので、大抵の男性ならその顔つきを見ただけで、今までに出会った幾人もの男性の顔つきと照らし合わせて、大体彼の内面を予想することはできる(もっとも、それでも常に意外な面はあるが)。しかし、氏の場合はその顔つきを見ただけでは、ぼくには氏がどんな人間なのか予想できないのである。つまり、氏は今までにぼくが知り合ったどんな男性とも違う、ということを、ぼくは素直に感じてしまう。

 氏はぼくの調べたところによると、横浜国立大学の電子情報工学科を卒業した後、当時出来たばかりのスクウェアにプログラマとして入社した。FFを手がける前は、「ザ・デストラップ」「キングスナイト」「ハイウエイスター」 「とびだせ大作戦」などの開発に携わったらしいが、これらのゲームはまったく無名といってもいいほどである。しかし、その後突如として、氏は「ファイナルファンタジー」というRPG史上に残る大傑作を生み出し、その後のスクウェアの繁栄を築き上げた。ここで氏が理系出身であり、元プログラマでもあったということに注目してもらいたい。FFシリーズはそのドラマティックなストーリーで多くのファンを獲得しているが、その多くのシリーズのシナリオを手がけているのも、ご存知の通り、氏本人なのである。また、現在ではディレクター、プロデューサーとしても活躍し、ゲームのコンビニ流通を作り上げるなどの見事な手腕を発揮している。さらには映画監督まで努め、その外見もダンディーで女性にもモテそうだ。つまり、氏はまさにマンガ的なまでのスーパーマンなのである。

 そして、ぼくは今からこのスーパーマンの思考を分析しようというのだから、実に批評家とは身の程知らずの職業であるとは思う。なぜなら、批評家とはたとえ彼がどんな人間であっても、自分と対等の存在として扱うものだからだ。ぼくは決して批評家ではないが、しかし、このサイト上ではあくまで「批評家」を演じ続けたいと思う。そして、これはきっとあなたも許してくれることだろう。

 ただ一つ、現在のゲームは、ことにRPGは、決して一人だけが重要な役割を担っているわけではない。だから、FFの成功を氏一人だけの功績にするのは間違いだと思う。今から分析してゆく事柄も、もしかしたら氏本人に関することではないかもしれないが、なるべくFFシリーズを通じて感じられる、本質的な氏の物作りの特徴を捉えてゆきたいと思う。



 FFとは何か?

よく「これはFFじゃない」とか「これはドラクエじゃない」といった言葉が、RPG好きの人から聞かれるが、彼らは一体何様なんだろうかと、実はぼくはよく思う。「FFとは何か」ということを決めてもいいのは、氏だけである。そして氏本人が、そのゲームに「ファイナルファンタジー」というタイトルを与えて発表している限りは、その作品の内容がどんなに今までと変化していても、それはやはりFFに違いない。氏自身も「これがあるからFFだとかそういった理屈で決められるものではなくて、もっと感覚的なもの」という意味の言葉を発言している。無から有を生み出すいう作業は決して理屈ではないし、その「理屈ではない部分」に常にそのクリエイターの本質も存在しているのである。

 有名な話だが、氏はファイナルファンタジーを作る前、ファミコンの演算能力に限界を感じ、ゲーム業界を辞めようと思っていた時期があるという。そして、実は「ファイナルファンタジー」を自分の最後の作品にするつもりだった。だが、結果的にはそれが大当たりし、氏はゲーム業界を去らずに済んだのであるが、まだまだ人生の半ばにおいて、「これが自分の最後の作品」と思って創るクリエイターの気持ちとは一体如何なるものであろうか? そして、その時の気持ちこそが、ぼくは「ファイナルファンタジー」という作品の根幹にあると思うのである。

 事実、FFXに同梱されていた開発者のインタビュー等を収めたDVDの中で、氏は実に驚くべきFFの秘密を語ってくれている。この言葉を聞いたとき、ぼくはもう「FFを越えるRPGを創ることは不可能なんじゃないのか?」と思ってしまったぐらいである。氏はFFを開発するに当たって、常にスタッフ全員にある一つの「旗」を提示しているという。それは「現在の自分たちの持っている全ての力・技術力を最大限に発揮すること、つまり、これが自分の最後の作品だと思って創ること、その旗に到達できて初めてFFだ」と言うのである。このような言葉を聞かされて、燃えないスタッフがいるだろうか? FFとは常にこのような厳しさの中から生まれるRPGなのである。



 最もエンターテイメントを理解している男

もし、「日本のゲームの中で、もっともエンターテイメントなゲームは何か?」と尋ねられれば、ぼくなら確実にFFシリーズを挙げる。「エンターテイメントとは何か?」という問題は難しいかもしれないが、感覚的に言って、FFシリーズよりもあらゆる意味において「エンターテイメントしているゲーム」というものを、ぼくは知らない。FFシリーズが日本のゲームの中で、最もエンターテイメント性の高いゲームだとすれば、氏はやはり日本のゲーム業界の中で、「最もエンターテイメントを理解している男」だと言えるだろう。

 一般に「ゲームはエンターテイメントだ」と言われるが、真に純粋な意味でエンターテイメントといえる作品を生み出している人というのは、現在の日本においては、氏と宮崎駿の二人だけだと言っても過言ではない。氏の創るFFシリーズが何故面白く、かつ、これだけ多くの人に受け入れられるのかということの答えは、FFシリーズがエンターテイメントという一つの表現方法の形式に忠実に則っているからだと、ぼくは思うのである。

 氏は「エンディングで感動できるゲームは売れる」と考えているらしいが、この言葉などは「エンターテイメントとは何か?」ということを考える上でも、非常に有益な言葉である。人を感動させるためには、ある一定の流れの中で、「山場」というものが存在していなければならない。そして、山場を作れるクリエイターというものは意外と少ないもので、たしかに山場と大きな感動が存在している作品は、そのほとんどが商業的に大きな成功を収めている。また、FFは決してプレイヤーを退屈させない。常にプレイヤーを退屈させず、大きな山場と感動が存在するゲームが面白くないはずがない。言葉でいうのは簡単だが、それを毎回確実に実現させているのが、氏というクリエイターなのである。



 無とクリスタル

初期のFFには「クリスタル」という世界を象徴するような物質が存在するが、このようにシリーズにまたがって登場する象徴的な物質には、必ずその作者の重要な思想が込められているものである(もっとも単なるパクリは別であるが)。思想というと小難しいというイメージがあり、実際本物の思想というものはその通りなのであるが、元々エンターテイメントとは小難しい芸術的な作品に対するアンチテーゼから生まれたものであり、それらを排除して純粋に面白いエッセンスだけを抽出しようというのがその意図であった。ゆえに、優れたエンターテイメントは、単純明快であると同時に、やはりその根底には深い作者の思想がある。「象徴的な物質」を用意するのも、その作者の思想を小難しく語らないためのテクニックの一つなのだ。

 たしかにドストエフスキーとかニーチェといった大思想家になると、現実とはまるでかけ離れたことを言う様になるが、現実を力強く幸せに生きるためには、「当たり前のこと」をもう一度確認するだけで、ぼくらには十分である。なぜなら、ぼくらは目の前の現実に煩わされるにつれて、そういった「当たり前のこと」を見失いがちであるからだ。クリスタルは世界の創造を司る物質である。そして、氏がシナリオを担当しているシリーズにおいては、最後の敵は、つまり世界の悪は「無」である。これは一体、何を意味しているのだろうか?

 あるいは、氏はこの問いに対して、どこかのインタビューで答えているかもしれないので間違っているかもしれないが、素直に考えれば、やはり「人間賛歌」「生命の賛歌」だと言えるだろう。ぼくらは生まれる前は「無」であり、死んだ後もまた「無」に帰る。生命が誕生するということは、そして、人間の営みというものは、善も悪も全て人間の創造行為である。という風に考えれば、クリスタルを守ろうとする者は人生を賛歌しており、クリスタルを破壊しようとする者は人生を否定している。氏の持つ視点は、常に限りなく大らかで広い。たしかに、ぼくらはFFをプレイしてもこういうことは考えない。が、少なくともぼくらはFFを通して、氏の持つそういう大らかな視点を感じ、純粋さを取り戻しているのである。


 その生死観―母親の死

氏は「マザコンではないが、非常に母親を尊敬していた」という。そして、氏は母親をFF3の開発中に事故で亡くしてしまった。それから、氏は生とか死といったものについて、考えをめぐらせるようになったという。「生命や魂というものは、巡りめぐってやはりどこかに保存されているのではないのか?」とか、「自分ひとりだけが何故生き残らなければならないのか?」という問いに、それは繋がっていった。FF4〜7までのシリーズにおいては、特にこの氏の生死感が色濃く反映されている。当時は、「FFは簡単にキャラクタを殺す」という批判も出たが、もしこういう事情を彼らが知っていたとすれば、そんなに酷い批判を口にする者もいなかっただろう。

 ぼくはシナリオを書く人間ではないが、やはり優れた小説家やシナリオライター・漫画家というものは、その裏を取ってゆくと、必ず彼の人生経験にその元となるアイデアが見つかるものである。そして、それはほとんどの場合、普通の人間なら経験せずに済むような大きな犠牲の上に成り立っている。ぼくにとって氏の内面を想像することができないのは、あるいは氏のたどってきた人生経験の重さゆえかもしれない。氏もやはり「自分が面白いと思うゲームが面白い」と明確に考えているクリエイターである。優れたクリエイターは皆こういう。だが、それでも彼らの作品が面白く、限りなくユーザーのことが考えられているのは何故だろう? ある人は「自分が面白いと思うものと、一般の人が面白いと思うものが一致しているということが、才能があるということだ」といっていたが、ぼくはこの考えは間違っていると思う。これ以上深く突っ込むことは、完全に芸術論となってしまうので辞めておこう。しかし、ぼくらは優れた作品を数多く知ってはいても、それらを生み出せる人物が如何なる人間かということは、まったく知らないのである。



2003年12月15日



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